生産性が意味をなさない世界
個人的には、もうちょっとワイドショーとかで話題になったり、大規模に炎上してもおかしくないと思うのだけれども、せいぜい小規模火災程度だ。
ということは、世間には某女性国会議員と考え方が一緒の人がたくさんいて、それが主流だと考えるべきだろう。
私はLGBT批判よりも、生産性について、生産性の定義と生産性の無い人間に価値は無いのかということ。
相模原の障害者殺人が、2年前ということでニュースで取り上げられているが、それも生産性の有無が鍵となっているし、このことはもっと議論されてもいいと思う。
本当に人を好きになる時に、生産性がそこに割って入ってくるだろうか。
打算的に付き合ったり、結婚するなら、生産性が入る余地は大いにあるだろう。むしろ、感情を上回る。
ただ、人は生産性だけでは生きられない。
理性を抑えられないくらい人を好きになることだってあるはずだ。
たとえ、その人とは未来が無いとわかっていて、一生その人と交わることがないとわかっていたとしてもだ。
中島らものエッセイで、報われない恋をする友人の話があった。
友人には昔から好きな人がいて、その好きな人は他の男と結婚して、東京に行ってしまった。
友人は関西に住んでいたが、「彼女に会える偶然」を求めて、仕事や友人関係などを犠牲にしてまでも、東京に移り住んだ。
かと言って、彼女に会いに行ったり、近づくことはなく、もしかしたら起きないかもしれない偶然を待つだけだ。
中島らもは、そんな友人に呆れながらも、どうしようもなく心が揺さぶられると言った。
生産性なんか入る余地もないくらいの恋愛を某女性国会議員はしたことがあるだろうか。
たぶん無いだろう。
だから、私はかわいそうな人だと思う。
生産性や自己顕示欲や名誉欲とかいったものに雁字搦めになってしまって、そういったものが意味をなさない世界なんて有り得ないと盲信しているかもしれない。
これから先、某女性国会議員にも運命的な恋が、どうか訪れますように。
その時初めて、彼女は生産性の無い世界を、新しい価値観を見つけるかもしれない。